ボクは、カラスはカラスでも「ヤタガラス(八咫烏)」。そう!日本サッカー協会の旗章に使われている3本足のカラスです。
▲「八咫烏(やたがらす)」
日本神話では、神武東征の際に、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)によって神武天皇の元に遣わされ、熊野国から大和国への道案内。また、神武天皇が熊野から大和へと攻め込む際に先導した武角身命(たけつのみのみこと)の化身ともいわれています。
さて今日は、日本武尊(やまとたけるのみこと)が祀られている草薙神社のある静岡市清水区に、“サッカー神社”があると聞きましたので、那智からひとっ飛びし、皆さんにご案内します。
“サッカー神社”とは、清水区小芝にある「小芝八幡宮」(おしばはちまんぐう)と清水区江尻町にある「魚町稲荷神社」(うおまちいなりじんじゃ)の2つの神社の通称です。距離にして約500m、歩いて6〜7分ほどしか離れていないこの2つの神社は、同じ宮司・中跡和史(なかあと かずし)さんが管理しています。
まずは、「小芝八幡宮」に行ってみましょう。JR清水駅西口(愛称・江尻口)から国道1号を直進します。ちなみに、この江尻口ですが、区画整理事業で生まれ変わって、駅前広場が整備され、バスターミナルや歩道、シェルターなどがきれいになっています。
さて、国道1号を西へ700mほど歩き、大手町の交差点を左折。100mほど進むと、巨大な樹木が茂った境内、さながら、清水の街の鎮守の森といったイメージの「小芝八幡宮」に着きます。御祭神は、品陀和気命(ほんだわけのみこと)、大雀命(おおさざきのみこと)、武内宿弥(たけうちのすくね)とのことです。
神社案内板には、次のように成り立ちを紹介しています。
小芝八幡宮は、嵯峨天皇弘仁二年(811)の創建といわれ、古称家尻(江尻)の里に建立された。
戦国の世、今川氏に代った武田信玄が、永禄十二年(1569)江尻城(小芝城)を築くにおよび、今までの廃れた祠を境内に移し、八幡宮を鎮守の神として祀り、武人の崇敬が厚かった。
慶長六年(1601)廃城後、現在の地に移され昭和八年本殿の造営などと共に、村社より郷社に昇格、旧東海道江尻宿九町の産土神として、人々の崇敬を集めている。
▲ケヤキの御神木
一の鳥居をくぐりますと、左手に樹齢400〜500年はあると思われるケヤキの御神木、中央に拝殿、右手には絵馬掛けが見えます。
御神木と拝殿、絵馬掛け・・・、神社には当たり前の風景なのですが、絵馬掛けは、なんと赤と白のサッカーボールを模しているのです。これは、宮司・中跡和史さん、渾身の一作なのです。
▲サッカーボールを模した絵馬掛け
絵馬掛けを手作りされる中跡さんです。絵馬掛けだけのはずがありません。ご期待通り、絵馬も、もちろんサッカーボールです。
社務所で中跡さんに、お話をお聞きしたところ、
「ヤタガラスくん、サッカーお守りもあるんだよ」とのお言葉。
22年前、小学校低学年だった御子息の疑問―
“サッカーには、なぜお守りがないのカナ”
―に応えるかたちで、サッカーお守りを授けることになったそうです。
▲「身体健全 必勝」守
今では、試合の遠征に来た全国のサッカー少年や、家族での参拝者はもちろん、サッカー少年に恋する少女たちもお守りを求めにくるそうです。そして、「身体健全 必勝」守―として、ゴルフお守り、野球お守りも授けてくれます。
「八幡様は、勝負の神様なんだよ」。中跡宮司の言葉が胸に響きます。
勝運が上がるようお祈りし、「小芝八幡宮」を後にします。300mほど南へ進み、清水銀座との交差点を右折。100mほどで「魚町稲荷神社」が見えてきます。
神社案内板によると―
永禄十一年(1568)十二月駿河に攻め入った武田信玄は翌年現在の江尻小学校の敷地に、江尻城を築き、その後天正六年(1578)当時の城将穴山信君(梅雪)は、城を大改築し本格的な城とした。
梅雪は一村一郷に鎮守あり、一家に氏神あり、どうして一城に鎮護の神がなかろうかと言って、この地に社殿を造営したといわれている。(江尻町誌による)近くには江尻宿の問屋場・高札場・本陣等があって東海道を往来する旅人でこの地魚町(上町)は賑わった。
―とのことです。
宇賀之御魂命(うかのみたまのみこと)を祀っている「魚町稲荷神社」ですが、静岡市清水区は「清水エスパルス」のホームということもあり、毎年、リーグ戦開幕前に必勝祈願に訪れます。
また、今をときめく“なでしこリーグ”へと続く、日本の女子サッカー創生期の強豪「清水第八プレアデス」の選手たちも、必勝祈願に訪れるそうです。
そのような理由で、“サッカー神社”なのでしょうか。などと思いつつ、境内に・・・。えっ!思わず目を疑う大きな物体が!
ここ「魚町稲荷神社」には、サッカーボールをかたどった御影石のモニュメント「日本少年サッカー発祥の地」の碑が建てられています。
高さ1m60cm。どのくらい大きいのか、写真で伝えられるでしょうか。
ホラホラ、内藤さん。ちょっと横に立ってみてください。
今回、サッカー神社の紹介取材に同行してくださった清水建設業協会の事務局長・内藤樹さんに、サイズモデルになっていただきました。
「日本少年サッカー発祥の碑を創る会」による碑には、次のように説明しています。
▲「日本少年サッカー発祥の碑を創る会」の碑
「日本少年サッカー発祥の碑」
昭和三十年代、日本のサッカーは、いわゆる御三家と呼ばれた広島・藤枝・浦和を中心に展開していました。その頃清水は、どこにでも見られるごく平凡な地域のひとつにすぎませんでした。
昭和三十一年、ここ魚町稲荷神社に隣接する江尻小学校にサッカー好きの新任教師(堀田哲繭)が赴任しました。その日から先生は子供達と毎日運動場でボールをけりました。ところが、当時江尻小学校には“ボールを、足で蹴ってはいけない”という校則がありました。しかしサッカーの魅力にとりつかれた子供達の様子を見て、校長先生も許可をしたのです。
これが、『日本で初めての少年サッカーチーム』を生むきっかけになりました。
文部省小学校学習指導要領第三次改訂〈一九六八年〉体育科のボール運動に“サッカー”が登場する十二年も前のことです。
江尻小を皮切りにその後、清水市内に小学生チームが次々と誕生し、昭和四十二年には、『国内初の小学生リーグ』がスタート、指導者育成のためコーチングスクールも開校されました。
この年、東海四県サッカー大会が開催され、日本一のチームをつくる一貫として、清水市内の江尻小・入江小・庵原小の子供を集め選抜チームを結成し、優勝をかざりました。これが清水FCの前身です。
清水からは数多くのJリーガー・日本代表選手が生まれ活躍しています。それは当時の指導者達が長期的な視野にたち、世界に通用する日本一の少年団チームを育成強化したからです。その後もサッカーに関わる多くの方の献身的な活動・努力により“サッカーのまち清水”ができあがりました。
現在では「ゆりかごから息続くまで」を合い言葉に、三歳のチャイルドサッカーから、年配の方のOBリーグまで、あらゆる年代の人たちが“いつでも、どこでも、誰とでも”清水市のどこかでサッカーを楽しんでいます。
この碑は当地が清水のサッカーを発展させた原点の一つであり、日本の少年サッカーチーム発祥の地であることを記念して創られました。
平成十一年十一月十一日
日本少年サッカー発祥の碑を創る会
このモニュメントは、町の人たちが、お金を出し合って奉納。しかも、その日は平成11年11月11日―。イレブン・イレブン・イレブン、です。
サッカーの街・清水にある2つの“サッカー神社”。サッカーをする方だけではなく、観戦や応援に行かれる方、はたまたゴルフのスコアを上げたい方などにもお勧めです。
では、ボクは夜の清水の街へ。いつの日か、この“わが街ウオッチング”での紹介があるかもしれませんので、取材に・・・。