島田駅から車で約1時間50分、大井川鉄道終点の千頭駅から約30分で奥大井、大自然に囲まれた寸又峡に到着します。昭和37年に誕生した寸又峡温泉は、ことし温泉開湯50周年を迎え、新たなまちおこしへの検討をスタートさせています。今回のズームアップインタビューは、寸又峡温泉の生みの親であり、開湯のリーダーだった望月恒一さんに開湯当時のお話を伺いました。聞き手は、おなじみの静岡県建設業協会総務・広報委員会の原廣太郎委員長、佐野茂樹委員、名倉啓司特別委員です。
寸又峡温泉街の一番入口にあるホテルが翠紅苑(すいこうえん)です。 ゆっくり回る水車を右にして、「旅 御宿」と書かれた大きな暖簾(のれん)をくぐりました。
案内を請うと、古く丸みがあるブラウン管テレビ、扇風機、ランプなどが置かれてレトロな食堂(「はいから亭」というそうです)に通されました。しばらくすると、このホテルの初代オーナー、望月恒一さんが94歳とは思えない足取りで登場されました。
▲「大きな暖簾が旅人を迎えます」 | ▲「ホテル入口の右側にはなぜか水車がありました」 |
過疎化を防ぐために温泉開発
「寸又峡のある大間地区は、森林は宮内庁の所管する御料林でしたし、発電所やダムができて、そこに勤める社員たちの社宅もあって栄えたところでした。しかし、戦後は発電所は自動化されて、ダムや発電所に勤める社員たちは、子どもの教育を重視するようになるなどから、単身で赴任するようになり、過疎化してきました。このため、大間地区をどうにかしよう、温泉をやって湯治客を呼び込もうと考えたのです」
ところが、温泉掘削はそれほど簡単ではなかったようです。役場に相談しても「出るか出ないか分からない温泉掘削は、とてもできない」と言われました。
紆余(うよ)曲折の末、スポンサーが現れてボーリング調査を始めました。しかし、それもつかの間、やりかけたところでいわれのない中傷があって、スポンサーが下りてしまいました。
▲「飛龍橋から見下ろした大間川」 | ▲「山の天気は変わりやすく稲光が走りました」 |
涙を流した資金集め
ボーリング調査に1日3000円(当時)必要なため、金策に走り回ったそうです。当時優良企業だった大井川鉄道に交渉に行きました。「役員室の前で待ち続けても声が掛からない。役員にお会いしないで帰ってきたことがありました。涙が出ました」
浜松にも金策に出掛けました。「終戦後のことでした。馬込川が町の真ん中に流れていました。その日は木賃宿に泊まりましたが、蚊が出てきて、ワイシャツを被ったり取ったりして眠れませんでした。とうとうお金はもらえませんでした」
そのような苦労も、大井川鉄道の土木部長の理解で解決したそうです。しかし、お湯はなかなか出ません。「いよいよ駄目かと思ったところ、お湯が出ました。お神酒(みき)を上げたりしました」。昭和32年暮れのことだそうです。
お湯が出たら出たで、また問題。望月さんと資金を出してくれた大井川鉄道との間の温泉権の落ち着き先が決まりません。そこに当時の鈴木治平川根町長が温泉開発を進めようと「温泉権を何が何でも譲れと言います」。鈴木町長は「失敗したら私個人でやる」と議会も説得して、寸又峡温泉が生まれることになりました。
▲「プロムナードの一番奥にある飛龍橋 右側に立っているのは原委員長と佐野委員」 |
寸又峡三原則は当初から
「町長は、温泉の恩恵を地元の人が受けられるようにと、土地を売らないようにする条例を作りました。売ることができると、一つの会社に買われてしまう恐れがあるからです。また、温泉街をどういう性格にするのか。どんちゃん騒ぎをしない。広告をつけないようにする。芸者も駄目ということに決めました。健全な休養地としての温泉街にしたのです」
この“寸又峡三原則”は今もしっかりと受け継がれています。
その後は、順風満帆でした。
「井川線が営業になり、SLも通るようになりました。“秘境”ブームにも乗りました。手放しでもお客様が集まって来てくれました」
▲「秋も冬も春もどんな景色になるのか見てみたい」 | ▲「夢の吊り橋への階段」 |
宣伝効果2億円? 金嬉老事件
▲「寸又峡プロムナードの入口にある環境美化募金案内所」 |
▲「望月さんとは補聴器を通して話しました」 |
昭和43年の金嬉老事件(旅館での人質・篭城事件)で全国区の温泉地になりました。「宣伝効果は2億円といわれています。事件が終わってから、当時の竹山祐太郎県知事が訪れましたし、駐在所もできました」
しかし、バブル経済崩壊と消防法改正が大打撃を与えます。「消防法改正に対応した施設整備には何千万円も掛かります。後継者問題もあって旅館が減っていきます」
今、そうした延長線の上にあって開湯50周年を迎えました。「50周年をきっかけにしようと、若い人たちの力で一生懸命盛り上げようとしています。地元だけではなく、外から来た人も盛り上げてくれています」
望月さんは大正6年のお生まれ。杖こそ突いてはおられますが、ピンクのシャツがとてもオシャレ。立ち姿はすっとしています。補聴器に話し掛けるインタビューとはいえ、鮮明な記憶ではっきりとお話しいただきました。お父様は96歳まで、お母様は90歳まで、お父様のお兄様(伯父)は100歳以上と長生きをされたそうです。長寿は、寸又峡温泉の効用と、インタビューの間、絶やすことのない笑顔の賜物でしょうか。
必要なのは町全体でお客様を迎え入れる姿勢
▲「息子さんで現オーナーの望月孝之さん」 |
▲「望月恒一さんが1年半かけて著された『大寸俣村から 寸又峡』(平成24年6月発行、非売品)」 |
望月さんの息子さん(次男)で、翠紅苑の現オーナーであり、寸又峡美女づくりの湯観光事業協同組合代表理事の望月孝之さんにもお話を伺いました。
「危機感を持って、平成13年に二つの組合が一つになって今の事業協同組合になりました」
“寸又峡三原則”に沿って「日本一清楚な温泉」として、次の方向をどうしたらいいのだろうかを真剣に考えているそうです。
驚くことに、これまで「観光基本計画」というものも持たずにきたとのこと。「川根本町全体がお客様を迎え入れる姿勢が必要なのです。そうした観光に対する考えが、町民の皆さんに少しずつ理解されてきたように思います」
建設業に対しても一言を頂きました。「開湯50年間、ここの道路ほど安全なところはありません。建設業界がしっかり仕事をしてくれたおかげで、ありがたいことです。今後は、井川へ抜けるルートなどの拡幅をお願いしたいものです」
その一方で「昔、望んだ大型バスが入ってきて、観光客を大勢来てもらうのがいいのか。大型バスが入らない方がいいのか」。とても難しい問題を抱えておられます。
「12月14日には、6月に続き、若い人たちに意見を出していただく会合(開湯50周年記念まちづくりフォーラム「若者が地域を変える」)を開きます。こうした取り組みを通じて、次のリーダーになる人を引っ張り出していきたいと思っています」
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さあ、これから紅葉の季節、美しい大自然の見ごろを迎えようとしています。さらには12月に温泉感謝祭で「寸又峡の寒さを体感しながら、美味しい鍋料理を食べてもらいます」。一度訪れれば、寸又峡の魅力がきっと分かります。
▲「井川線の列車が走っています(長島ダムから見えました)」 | ▲「長島ダムにも足を伸ばしました」 |
≪ホームページ≫
- 寸又峡ほっとステーション
- http://sumatakyo-spa.com/