「清水みなと祭りは、みんなと祭り<br>今年は10年振りの新曲かっぽれ・フラメンコ登場!」<br>~清水みなと祭り実行委員会委員長 山田芳弘氏に聞く

委員長 山田 芳弘氏

清水みなと祭り実行委員会
委員長 山田 芳弘(やまだ・よしひろ)氏

ヤマダユニア(静岡市清水区)取締役
2012年9月から実行委員長に就任 1954年3月生まれ


 8月最初の週末、清水のまちは、カッポレのリズムに酔いしれる。  清水みなと祭りは、市民の手づくりによる、市民総参加の夏のビッグイベント。夜、さつき通りでの市民総おどりは、清水の文化・芸能の奥深さと、人々の力強さ、郷土愛の象徴ともいえる。

 港・伝統・音楽・踊り――清水みなと祭りは、さまざまな文化に支えられている。本来、異質なもの同士の自由往来、相互交流は、祭りを構成する大きな要素となっている。

 基本理念に「市民総参加・共感文化の創造」を掲げ、工夫や改良を重ね、さまざまなアイデアを繰り出し、節目を経験しながら、清水みなと祭りは成長してきた。

 その過程で時代の流れとともに、祭りに携わってきた先人たちの努力と尽力があり、現在の祭りを支える市民の底力がある。

 清水みなと祭りは“みんなと祭り”が信条の、実行委員会委員長・山田芳弘氏に「清水みなと祭り」について聞いた。

■清水みなと祭り・総おどりの歴史■
~戦災復興から盆踊り・地踊り、そして市民総参加の祭りへ~

今年で66回になる清水みなと祭りについて、歴史・経緯を含めてご紹介ください。


清水みなと祭りは、毎年8月第1週の週末(金曜・土曜・日曜)の3日間、開催されます。中でも、総おどりは金曜・土曜の2日間、JR清水駅前から港橋までのさつき通り(往復4.2km)では、延べ2万人が参加し、地踊りとかっぽれ踊りが繰り広げられます。

 第1回清水みなと祭り(当時は港祭)は、1947年(昭和22年)に始まりました。戦後の町おこし、戦争で荒廃した街を何とかしたいという当時の先輩たちが、祭りを立ち上げたわけです。

 終戦直後の日本は、その日その日の生活に追われた人々が、暗い顔で街を歩き、清水も例外なく、精神的にも経済的にも荒廃していた。人々の心に明るさを取り戻そう。それには、まず祭りだ。港で生きる街であることを象徴して、港祭とし、全市を挙げたものにしよう。先輩たちは、そう考えたのです。

 丁度、清水港が戦災の復興に乗り出し、貿易港として再スタートした時でもありました。

 清水港を中心とした経済界の人々が、市を活気づけようと、清水市と商工会議所に呼び掛け、清水みなと祭りは産声を上げたのです。

『港かっぽれ!KAPPORE FUNK』
▲『港かっぽれ!KAPPORE FUNK』

1回目から現在のような「総おどり」だったのですか。


昭和30年代ごろまでは、商工会議所が主体となり、さつき通りを走っていた路面電車を止め、午後7時から『港おどり』『次郎長おどり』『港小唄』の3曲を踊る祭りでした。踊り手は芸者衆と婦人会の方たちです。

 その後、『清水おどり』『花の次郎長さん』『新駿河節』の曲目が追加されたたことと、「盆踊り」として、清水市内の町内会で同じ踊りが楽しめるよう、市内のあちらこちらへ芸者衆が出向き、踊りを披露していました。

 その後、1974年(昭和49年)7月7日に、七夕豪雨が清水の町を襲いました。その年は、さすがに、祭りどころではなく中止。一度じっくり祭りのかたちを考えようということになりました。

 1976年(昭和51年)には、「市民総参加」を初めて掲げ、市民の手作りの祭りに立て直しを図り始めました。この時から、港祭りは「みんなと祭り」の「みなと祭り」になりました。

“新生みなと祭り”と銘打ち、祭り活性化への模索の流れは、ここから10年以上続くことになります。

■「みなと祭りで踊る曲をつくってください」■
~宇崎竜童氏と清水みなと祭り~  

 何でもそうでしょうが、ある程度回数を重ねると、マンネリ化し、参加者も少なくなってしまう傾向が、祭りに限らず行事には出てきます

 40回目となる1987年(昭和62年)に向け、これからの祭りを背負って立つ若い人たちの参加などで祭りを盛り上げるために、踊りの振り付けを江戸芸かっぽれ家元・櫻川ぴん助氏にお願いしました。

 そして、さらに若者を惹きつけるために、伝統芸のかっぽれを今の音楽と融合させようと考え、和太鼓を組み入れたステージを公演していた「竜童組」の宇崎竜童氏に、踊りの曲を作曲していただけないかと考えたのです。

 アポなしで、東京へ行ったものの、2度断られ、3回目にようやく竜童氏にお会いできたそうです。そこで、清水みなと祭りのことを話し、作曲をお願いするわけです。

 

 竜童氏は、清水の熱意を感じ取ってくださり、『港かっぽれ!KAPPORE FUNK』が誕生しました。自身の音楽に、民衆のエネルギーを取り込もうとしていた竜童氏と、祭りに活を入れたい清水の思いが一致したのではないかと、今では思います。

 こうして、振り付けと作曲をお願いし、清水みなと祭りの新しい市民踊りが誕生しました。

みなと祭り 総踊り会場(清水さつき通り)
▲みなと祭り 総踊り会場(清水さつき通り)

■『港かっぽれ!KAPPORE FUNK』■
~祭りにセンセーショナルを巻き起こした!?~

日本の伝統芸かっぽれと、ファンクですか。組み合わせが絶妙ですね。


若い人たちが楽しく踊れるリズムを取り入れたいということで、「ファンクのリズム」しかないと考えていました。

また、“かっぽれ、かっぽれ、ヨーイトナ、ヨイヨイ”と威勢のよい掛け声の「かっぽれ」は、大阪の住吉大社に古くから伝わる住吉おどりという説があります。

 住吉神社は、神功皇后の百済支援の折、ご神託により鎮座したもので、この百済支援のための軍艦を、清水のいほはらの長が仕立てたそうです。清水港のルーツとも言えるものです。

 そのような故事で結ばれている清水港と「かっぽれ」をベースに、アメリカの黒人たちが生み出したファンクを融合させたのが『港かっぽれ!KAPPORE FUNK』です。

 少し泥臭いリズムに乗せて奔放に語るラップが特徴なのですが、この曲の強力な衝撃は、総おどりの参加者を飛躍的に増大させ、みなと祭りだけでなく、その後、市内の小・中・高校の運動会などでも踊られました。

宇崎竜童氏
▲宇崎竜童氏

その後、レゲエ・ねぶた・エイサー、次々と曲が発表されていきますね。


『港かっぽれ!KAPPORE FUNK』から5年ごとに、竜童氏に作曲のお願いに伺いました。

 45回目は、中米のリズムカルな「レゲエ」を組み合わせた『活惚レゲエ』を発表しました。若者が躍動し、夏の夜を焦がすほどの熱気は、ジャマイカのスカから発展したレゲエのリズムから生まれたものです。

 竜童氏は、“やさしい踊りは、あきられる”“難しい踊りが踊れるから、人に見せたくなる”と考えているようです。

 この45回目は、記念事業として「ヒューマンセッション'92 1万人の港響曲」という一大ページェントを開催しました。1万人以上の出演者・スタッフ・ボランティア・観客が一体となり、清水港日の出埠頭を会場に熱いエネルギーを結集させたのです。

 もちろん、総合プロデューサーは竜童氏です。しかし、竜童氏は「主役は市民のみなさん」と言ってくださり、港かっぽれを基調とし、さらに祭りを発展させるために、その後もご尽力くださいました。

「ヒューマンセッション'92 1万人の港響曲」(清水日の出埠頭)
▲「ヒューマンセッション'92 1万人の港響曲」(清水日の出埠頭)

■主役は市民■
~曲と踊りが祭りを盛り上げる~

 50回には青森のねぶたを基調とした『かっぽれ佞武多』、55回には沖縄のリズム・エイサーからなる『かっぽれエイサー』を発表しました。

 竜童氏によりますと、曲作りにあたって、色々な角度から清水を見た時、「日本の中心は清水」という意識が働くそうです。だから、日本中のリズムを取り入れていくことになったわけです。

 5年ごとの新曲登場ですが、曲と踊りの発表はその前年に行っています。1年間のスパンを設けるのは、練習期間を経て、翌年のみなと祭り総おどりで踊るため、曲を広めるためでもあります。

 総おどりには、参加料をいただいています。これは、意識だけの“市民総参加”ではなく、“実”としての総参加の意味合いもあります。“お客さん”としての参加では、ないということです。また、3回にわたる説明会と反省会への参加も出場条件とさせていただいています。それでも踊りたい人たち・連の申し込みは、本当にありがたいことに、あとを絶ちません。

 曲の魅力、踊りの魅力は相乗効果となり、清水みなと祭りの魅力を大いに引き出してくれました。

■清水建設業協会と清水みなと祭り■
~青年部中心に3日間は徹夜覚悟~

▲清水建設業協会青年部による本部設営

――市民の手づくりによる、市民総参加の清水みなと祭りに、清水建設業協会はどのように関わっていますか。


清水建設業協会としては、清水みなと祭りの前に、総おどりの場所となるさつき通りの清掃をボランティアで実施してくれています。

 真夏の暑い中の作業であり、毎年、本当に頭の下がる思いです。

 また、現在の実行委員会のメンバーもそうですが、歴代の委員会に、清水建設業協会員の方たちが多数参加してくれています。

 主に清水建設業協会青年部の方たちを中心に、施設担当として、全面的なバックアップをいただいています。桟敷席、本部席、通行止めのバリケードの設営から撤収、提灯付けやスピーカー、落橋防止ネットなどの設置、花火会場となる日の出埠頭のフェンス移動、片付け・清掃まで、青年部の方たちは、清水みなと祭りの3日間は徹夜で動いてくれるのです。

▲清水建設業協会によるさつき通りでの事前清掃

 実行委員会は、総勢200人ほどで組織しています。委員会メンバーは、祭りの準備に忙しく、踊りを覚える時間がないのも実情です。

 踊りを広めているのは、実行委員会とは別組織のかっぽれ振興会です。会員は100人ほどいて、振り付けを教える指導者、アシスタントなどのランクに分かれています。

 そのほかにも、祭りの3日間は、静岡市消防団、各自治会から延べ1200人余りが交通誘導などに協力してくれています。

 特に象徴的なのは、祭りは午後9時に終了するのですが、片付け・清掃を踊り連の参加者の協力もあり、30分で終わらせ、午後9時30分には、さつき通りの車の通行止めを解除しているということです。この時間厳守は、一度も破ったことがないのです。

 このようなボランティア精神は、清水みなと祭り第1回から、現在まで根付いているものです。

■10年ぶりの新曲『かっぽれ・フラメンコ』■
~清水みなと祭り・総踊り 宇崎竜童プロデュースの集大成に~

今年は、10年ぶりの新曲が登場するそうですね。


2012年7月25日に静岡市清水文化会館マリナートで、竜童氏作曲の5曲目となる『かっぽれ・フラメンコ』を発表しました。

 奥様の阿木燿子氏がフラメンコへの造詣が深く、20年来の愛好家であったことと、清水の気質が、フラメンコの情熱に似ているとのことでした。祭りを皆で大きな渦に、うねりにしていく情熱ということだと思います。

 竜童氏も「集大成になるかもしれない」との意気込みで作ってくださったそうです。また、『かっぽれ・フラメンコ』の踊りの振り付けは、フラメンコ舞踏家・振付家の鍵田真由美氏と佐藤浩希氏にお願いをしてくれました。

■9月14日『FLAMENCO曽根崎心中』マリナートで公演
~日本の愛の物語をフラメンコで表現~

 また、ご夫妻のライフワークでもあるのですが、阿木燿子氏のプロデュース・作詩、宇崎竜童氏の音楽監修・作曲のもと、鍵田氏、佐藤氏が出演する『FLAMENCO曽根崎心中』があります。10年ほど前から全国で公演されています。

 その『FLAMENCO曽根崎心中』が、9月14日にマリナートで開催されることとなりました。ご夫妻から、ぜひ清水の人たちにも観てもらいたいという申し出をいただき、実行委員会も公演を成功させたいと思っています。

曽根崎心中
▲曽根崎心中

 竜童氏とは、先輩たちのおかげで知り合い、清水のことを愛してもらいながら、「かっぽれシリーズ」で5曲もの曲を作ってもらいました。

 実に、四半世紀にわたるおつきあいをさせていただいています。毎年、清水みなと祭りにはオープニングセレモニーから参加してくださり、“清水は第二のふるさと”と言ってくれています。

 竜童氏に限らず、さまざまな方たちと出会い、協力をいただきながら、清水みなと祭りは成り立っています。まさに、「みなと祭りは、みんなと祭り」なのだと思います。祭りの根底に、“祭りで人づくり”があるわけです。

最後に、「港かっぽれ」に対する想いをお願いします。


個人的には、清水みなと祭りに関わる実行委員会の皆さんも、家族とともに「港かっぽれ」を楽しめるようになれたらいいなと思っています。「かっぽれシリーズ」のうち、1曲くらいは、踊れるようになりたいですからね。

 そして、100回を迎えるころには、全国に清水の文化の一つとして認められるようになってほしいと思います。

「港かっぽれ」が長く続くためにも、清水のより一層の発展のためにも、実行委員長として、皆さんの協力を仰ぎながら、できる限りの力を尽くしていく所存です。

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