昨年、我が郷土の誇りである「富士山」が「世界文化遺産」に登録されましたが「山」単独での登録ではなく、周辺の施設、遺跡、場所が構成資産として登録されました。構成資産・構成要素は以下の通り全部で33有りますが、このうち静岡県内で13、富士宮市内の6箇所が指定されています。意外と、山全体が登録されたと勘違いされている方も多くおられるのではないでしょうか?そんなわけで富士山を登らずとも行ける、富士宮市内にある世界遺産を紹介したいと思います。
富士山 構成資産/構成要素一覧表 |
http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/isan/sekai-top.htm より引用
■大宮・村山口登山道(現在の富士宮口登山道)
大宮・村山口登山道は、大宮・村山を経て、山頂の南側に至る道である。世界遺産指定地は、現在も富士宮口登山道として利用されている六合目以上である。
富士山は、平安時代末期に登山が行われるようになり、14世紀初めには富士山中で修行を行う修験者が村山を拠点として集まるようになったと考えられている。中世には、修験者・先(せん)達(だつ)に導かれた道者が多く登拝するようになり、16世紀作とされる「絹本著色富士曼荼羅図」には道者が大宮・村山口から富士山に登る様子が書かれている。
近世には、「村山三坊」(池西坊・辻ノ坊・大鏡坊)が登拝道を管理し、登拝道には山室の他にも「札打ち場」や「中宮八幡堂」、「御室大日堂」などの施設があった。中宮八幡堂は「馬返し」とも呼ばれ、ここまでは馬を利用することができたが、ここから先は徒歩で登山することになっており、金剛杖が売られていたという。18世紀後半から19世紀初頭の大鏡坊の記録によると、大宮・村山口登拝道を利用する道者の数は、御縁年で2,000人前後、平年で数百名程度だったと推測される。
明治39年(西暦1906年)、村山を経由せず大宮から直接六合目(大宮・村山口登拝道四合目:標高約2,600メートル)に至る新道が建設され、六合目以下の部分は登拝道としての機能を失った。このため、一部を除き登拝道跡の推定は困難であり、現在も調査対象となっている。ゆえに世界遺産としての指定範囲は、六合目以上となっている。
■富士山浅間大社
富士山麓の浅間神社は、富士山の噴火を鎮めるために富士山を神(浅間神または浅間大神)として祀ったものであり、富士山本宮浅間大社(以降、文章中の表記は「浅間大社」とする。)は最も早く成立したものとされる。浅間大社は、全国に多数ある浅間神社の総本宮とされる。「富士本宮浅間社記」には、大同元年(806)に山宮浅間神社の地から現在地に移転されたとある。浅間大社は富士山溶岩流の末端に位置しており、境内には、溶岩の間から湧出した地下水が池となった湧玉池(国特別天然記念物)がある。浅間大社は、噴火を水によって鎮める考え方から、湧玉池のほとりに置かれたと考えられている。
登拝が盛んになるにつれて、村山の興法寺とともに大宮・村山口登拝道の起点となり、周辺に宿坊が成立したと考えられている。「絹本著色富士曼荼羅図」には、湧玉池で垢離をとり、富士山に登る道者の姿がある。近世には、幕府の庇護を受け、徳川家康の寄進により慶長11年(1606)現在の社殿が造営された。寛文10年(1670)の「境内図写」には、浅間造りの本殿や楼門等の社殿、堂社、湧玉池(上池)、鏡池などが見える。浅間大社は、慶長14年(1609)には山頂部の散銭取得の優先権を得たとされ、安永8年(1779)には幕府の裁許により八合目以上の支配権が認められた。八合目以上の土地は、明治時代に国有地化されたが、昭和49年(1974)の最高裁判決に基づき、平成16年(2004)浅間大社に譲渡(返還)された。
(作者付記)
昭和40年生まれの私自身、子供の頃は「せんげんじんじゃ」と言っていましたし、親しみを持って「せんげんさん」とも呼んでいましたから、今でもついうっかりすると「たいしゃ」と呼ぶべきところを「じんじゃ」と言ってしまいます。
●本殿
本殿は「浅間造(せんげんづくり)」と呼ばれる二層楼閣造りで棟高45尺(13.6m)。
下層は桁行5間・梁間4間の寄棟造、上層は三間社流造で共に桧皮葺。
明治40年5月27日古社寺保存法により特別保護建造物に指定され、以後国指定重要文化財として特別の保護を受けている。
●拝殿・幣殿
拝殿は桁行5間・梁間3間で、正面が入母屋造、背面が切妻造、屋根は檜皮葺、正面に1間の向拝が付いている。三方に縁を巡らせ、背面は幣殿に接続している。 幣殿は本殿と拝殿をつなぐ部分で、桁行3間・梁間3間の両下造、屋根は檜皮葺、北面には本殿の屋根の端が露出している。
●楼門
三間一戸、重層入母屋造で、屋根は檜皮葺、正面・左右脇に扉がついている。楼門の左右には随身像が安置されている。
●湧玉池
湧玉池は、富士山に降った雨や雪が地下水となり、富士宮溶岩流の溶岩層間を流れ、溶岩流末端で湧出して池になったものである。
禊所付近を境に上池と下池に分かれ、以前は上池のみを湧玉池、下池から下流を御手洗川と呼んだ。
登山者(道者)が湧玉池の水で心身を清めた後、山中へ向うという富士山信仰と関連の深い池である。
■山宮浅間神社
山宮浅間神社には富士山を遥拝するための遥拝所がある。これは、古い富士山祭祀の形をとどめているものと考えられている。遥拝所は溶岩流の先端部に位置し、遥拝所の周囲には溶岩礫を用いた石塁が巡っている。遥拝所内部の石列は、主軸が富士山方向に向いている。
「富士本宮浅間社記」には、浅間大社は山宮浅間神社の地から移転されたとある。山宮浅間神社の創建年代は不詳だが、発掘調査では祭事に使用されたと推定される12世紀の土器(カワラケ)が出土しており、文献史料では16世紀から確認できる。
また、かつては、浅間大社の祭神が春と秋に浅間大社と山宮浅間神社を往復する「山宮御神幸」が行われていた。山宮御神幸の道筋(御神幸道)50町(1町は約109メートル)には、元禄4年(1691)に1町毎に標石が置かれた。明治7年(1874)以降山宮御神幸は行われなくなり、標石の大半も失われているため、現在正確な道筋は不明である。
■村山浅間神社
村山は、富士山における修験道の中心地であり、明治時代の廃仏毀釈運動により廃されるまで、興法寺という寺院があった。
鎌倉時代には、末代上人に関連する修行者により寺院が成立したと考えられ、村山には正嘉3年(1259)の銘がある大日如来坐像が伝わっている。文明18年(1486)には聖護院門跡道興の来訪があり、この頃には本山派に加わるようになったと考えられる。戦国時代初めには、今川氏の庇護を受け、修験者や道者が集まり、周辺には坊が建ち並んでいたと考えられている。16世紀作とされる「絹本著色富士曼荼羅図」には、興法寺で諸堂を礼拝したり垢離をとったりする道者の姿が見える。また、興法寺周辺(元村山集落)は周囲の集落より一段高い場所に位置し、戦国時代には東西の見附で出入りを取り締まっていた。
近世には、村山三坊(池西坊・辻之坊・大鏡坊)が興法寺や集落とともに、大宮・村山口登拝道や山頂の大日堂を管理した。近世の村山は、興法寺を中心とする、修験者や門前百姓の住む修験集落だった。登山期には、三坊の免許を受けた各地(主に富士川以西畿内まで)の先達が、道者を連れて村山を訪れた。また、元禄年間に、幕府の寄進を受け、現在の境内の基礎が整えられたと考えられている。
明治初年の神仏分離令により、三坊の修験者は還俗し、興法寺は廃され、興法寺の中心的堂社であった浅間神社と大日堂は分離された。また、大棟梁(だいとうりょう)権現社(ごんげんしゃ)は廃され場所を変え高嶺総鎮守として祀られた。明治39年(1906)の登山新道の開削により、登山道から外れた。なお、修験道は明治5年(1872)に禁止されたが、村山の法印(ほうえん)(修験者)の活動は1940年代まで続けられた。
境内には推定樹齢1000年、樹高47m、目通り9.9mの巨木があり、村山浅間神社の御神木とされる。県指定・天然記念物
同じく境内には樹高16m、目通り9.2mのイチョウの巨木があり、「乳」と呼ばれる大きな気根(乳状下垂)の発達が著しい。その数は約70、最大のものは径30センチ、長さ2mにも達している。県指定・天然記念物
(作者付記)
「村山浅間神社」西側に当時の登山道の様子を再現・復興された場所がありますが、復興されたルートは100mほどで、その後すぐに車道に合流します。
■人穴富士講遺跡
人穴富士講遺跡は、人穴浅間神社の境内にある。ここには、犬涼み山溶岩流内にできた長さ約83メートルの溶岩洞穴「人穴」と富士講講員が建立した200基を超える碑塔等がある。また、ここには、甲州街道や山梨県郡内地方に通じる郡内道(人穴道)が通っていた。
『吾妻鏡』には人穴探検の様子が描かれている。この人穴探検談は、後に浅間大菩薩の霊験譚「人穴草子」としてまとめられ、近世には富士講の隆盛もあり広く普及した。また、『吾妻鏡』には、人穴は「浅間大菩薩の御在所」とあり、当時人穴が富士山信仰に関係する場所であったことがうかがえる。
富士講の資料によると、江戸の富士講の開祖長谷川角行は、人穴に篭って修行し、仙元大日神の啓示を得たとされる。角行の教えは、江戸時代中期以降、江戸を中心に広まり、数多くの富士講が組まれた。また、角行は人穴で亡くなったとされ、人穴は富士講の浄土(浄土門)とされた。このため、人穴は角行の修業の地・入滅の地や仙元大日神のいる場所として信仰を集め、参詣や修行のために人穴を訪れる講員も多く、人穴は先達の供養碑や記念碑などの碑塔を建立することも多く行われた。
また、近世、人穴には、光きゅう(イに米)寺(こうきゅうじ)(大日堂)があったとされる。光きゅう寺は修行者の世話をする施設だと考えられており、赤池家が管理していたとされる。赤池家は、この他、溶岩洞穴「人穴」やその周辺を管理し、参詣者の案内や修行者の世話、お札・御朱印の授与、碑塔建立の世話等を行っていた。
明治初年の神仏分離令・廃仏毀釈により、光きゅう寺(大日堂)は廃され、人穴浅間神社が置かれた。昭和17年(1942)には付近が軍用地として接収されたため周辺住民とともに人穴浅間神社は移転し、昭和29年(1954)現在地に復興した。なお、富士講の衰退もあり、碑塔の建立は昭和39年(1964)以降行われていない。
人穴洞穴。洞穴内には、祠と碑塔3基と石仏4基が建立されている。洞穴は、南西の端が進入口となり、洞穴中央部でくの字型に曲がっている。入口から約20mの位置に祠が、30mの屈曲部手前中央には直径約5mの溶岩柱がある。最奥部までは約83mで、そのまま閉塞していると考えられている。
※現在、洞窟内には入ることはできません。
人穴浅間神社。かつては「光侎三寺(こうきゅうじ)」があったとされるが、明年(1942)に少年戦車兵学校の開校に伴い地区の山野が演習地となり浅間神社も移転したが、昭和29年に復興された。現在の社殿は平成13年に建立されたものである。
■白糸の滝
富士山の湧水を起源とする数百の流れを持つ滝である。滝の名前は崖面の各所から湧出した湧水(1日平均15~16万立方メートル)が、数百条の白糸が垂れているように見えることを由来とする。
白糸ノ滝は富士講関連の文書によれば長谷川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地とされ、富士講信者を中心に人々の巡礼・修行の場となった。また、景勝地としても有名であり、『白糸漠図』な
どの絵画及び源頼朝の作とされる和歌などの題材にもなっている。
白糸ノ滝は、最近10年間の平均で日量約15.6万トンの湧水量が見積もられており、この多量の水の落下は、白糸溶岩流に比して軟弱な古富士泥流堆積物を次第に侵食し、やがて下部が抉り取られることで上部の溶岩流はオーバーバング状態となり、自重に耐えられなくなった時点で自然崩壊する。この作用が繰り返され、崖線が後退し続けていると考えられる。また、昨今では地震や大雨によりより地層が不安定な状態となり崩落を繰り返している。
高さ約20m、長さ約120mにわたり馬蹄状に広がる崖面の各所から湧出した湧水が、数多の白い糸を垂らしたように流れ落ち、滝となったものであり、全国でも珍しい構造の滝である。
富士山麓に降った雨水は、上部の白糸溶岩流を透過し、下部の不透水層との境目を流れ下っている。
白糸の滝は、両層が崖面として露出しており、両層の境目や上部の溶岩流の間から水が湧出している様子が確認できる。