旧稲取灯台のある場所の下は、神楽石(トモロ岬)という岩礁があって難所として知られ、難破船が絶えなく、航行する船の為に天保14年萩原清四郎という人が私財を投じて設置した灯明台が、この灯台のルーツです。 この灯明台は高さ3mの四角形の台の上に、灯篭状の灯室を取り付けたもので囲いの中に灯明皿を置いて灯芯で光を出していましたが、性能が低かったようです。 その後、灯明台はこの地で峠の茶屋を営む長男の萩原為次郎が引き継ぎました。 明治26年稲取村の漁業組合代表であった鈴木常右衛門氏の発案により、洋式灯台の建設が計画され、稲取の漁家約700戸は灯台建設基金として貯蓄を続けて、明治42年には積立金800円に達して建設の目途がつき、横浜にあった灯台管理養成所の教官職に在った、稲取出身の小沢芳蔵氏の肝いりで灯台建設の計画を行い、設計は英国人の技師に委ねマントル式石油燃照装置を取り付けるという、当時としては最新式のものでした。 この年に県知事の許可をうけて、9月に着工し12月に完成しました。しかし、当初のマントル式点灯器がイギリスから間にあわず、その間は石油ランプを使用していたそうです。
その後、取り替えられたマントル式点灯器を点灯するには、国の定める資格がなければならなかったので、大正3年萩原為次郎の17才の次女萩原すげが資格取得の為に、神子元灯台事務所へ行くことになり下田まで、片道25kmの道のりを当時はバスや電車もなく徒歩で通うため、朝3時に起き午前9時30分からの講習を受け、夜に家に着くという、過酷な8日間を過ごし資格を取得し、ここに日本初の女性灯台守が誕生しました。
それから昭和17年に太平洋戦争で休灯しましたが、昭和20年に廃灯となるまでずっとこの灯台を守り続けました。 その後、金属類は盗難に遭い石造りの台座だけになりましたが、昭和60年に旧稲取灯台として復元され、東伊豆町の文化財に指定されています。
伊豆半島には石廊崎灯台、神子元灯台など有名な灯台はありますが、この旧稲取灯台に来るとなぜかロマンを感じずにはいられません。 現在の赤や緑の灯台の明かりではなく、萩原すげさんが灯したマントル式の光の色を見たい気がします。 |