数百年以上の時を経て、復元された日本初の本格木造天守閣。その「東海の名城」ともうたわれる姿は、多くの市民から愛されている。今回は、JR掛川駅から徒歩10分圏内にある掛川城や桜の名所などを紹介したい。コロナ禍で遠出ができない今こそ、遠い昔の古人に思いを馳せてみてはいかがだろうか。


天守閣の特徴

天守閣は、外観3層と内部4層からなる。天守閣の本体は約12m×10m。
他の天守閣と比べると小ぶりだが、東西に張り出し、入口にやぐらを設置することで外観を大きく見せている。
真っ白な外観が特徴的な白漆喰の「塗り籠め」は京都の「聚楽第(じゅらくてい)」を、黒塗りの廻縁と高欄は大阪城の天守閣を手本にしたとされている。


掛川城と四足門

掛川城の主要部模型

成り立ちと再建の歴史


城郭内にある「掛川城御殿」

掛川城の前身となる掛川古城は、戦国時代に現在の位置から東に500mのところにあったとされている。駿河の守護大名・今川氏が遠江支配の足掛かりに城築。その後、今川氏の勢力拡大に伴い、現在の地に掛川城が新築された。

今川氏が織田信長に討たれると、徳川家康が掛川城を攻め攻防の末、開城。家康の領有後、重臣・石川家成が入城、武田氏の侵攻に対する防御の拠点となった。

天正18年に、天下統一を果たした豊臣秀吉は、徳川家康を関東へ、その代わりに大名・山内一豊を入場させ、城の拡張と城下町の整備。掛川城に初の天守閣の建造を命じた。

安政の大地震により天守閣などの大半が損壊。ほとんどそのままの形で明治を迎え、廃城するという運命をたどる。

御殿や天守台などは公園として市民に親しまれていた。
時を経て、1994年。天守閣は140年ぶりに木造で再建。美しい、今の姿を取り戻した。

現存する御殿は、1854年に大地震により倒壊。その翌年から約10年の歳月をかけて再建された。兵学校や町役場、農協、消防署として使用された。
現存する城郭御殿としては全国でも数カ所にしかなく、国の重要文化財に指定されている。


◎掛川城周辺を空中散歩

掛川城の点群データを映像で楽しめる2分ほどの動画
静岡県では、「掛川城オープンデータ化プロジェクト」の一環として歴史ある掛川城を地上レーザー測量により3次元点群データ化している。こちらから閲覧可能となっている

前半は、桜が咲くころ、空中から撮影された映像
後半は、地元の高校生らが行った掛川城で行ったプロジェクションマッピングの様子を映している。約4分ほどの動画


点群データの一部

桜に囲まれた二の丸

城のすぐ南を流れる「逆川」

春になると城南の逆川沿いの堤防は、「掛川桜」が咲き乱れる。
同桜は、市内にある田旗造園建設の田旗康二氏により育成されたカンビザクラ系統の新品種。2014年に「日本花の会」から新しい園芸品種として認定された。川沿いの両岸、約2kmにわたって約300本が植えられている。開花時期は、3月上旬から中旬。


掛川城と掛川桜

ライトアップされ幻想的にひかる掛川桜

掛川城付近の逆川

ちょこっとメモ 掛川の名前の由来 ※諸説あり
市の中心部を流れる「逆川」が切り立った崖のようにみえたために「欠川」から「懸川」、そして今の「掛川」になったとされている


掛川城付近の施設

1.大日本報徳社 大講堂
二之宮金次郎が説く「報徳の教え」を実践する組織の本社。1903年に建てられた大講堂は「近代和風建築」と呼ばれた純木造の施設。日本で最初の公会堂と言われている。復旧工事を経て、2009年に国の重要文化財に指定されている。
2.ステンドグラス美術館
市内在住の医師が、建物と約70点のステンドグラス、アンティークシャンデリアを寄贈。展示品の多くが19世紀にイギリスの工房で製作された作品。2015年にオープン
3.大手門
掛川城の表玄関となる門。1995年に復元された。建設当時は、現在の場所から南に約50mの所に位置していた。門をくぐると大手門番所がある。城内に出入りする人を監視する役人の詰め所だった。
4.竹の丸
上述の、山内一豊によって建設。家老の重臣の屋敷などとして使用された。2007年に市の文化財指定を受けた。