浜松城と大河ドラマ館

二の丸跡地から見える浜松城天守と大手門・大河ドラマ館 浜松 大河ドラマ館全景(浜松市中区元城町102-1)

浜松城
 家康が居たころの浜松城は、南北500m、東西450mで三方ヶ原の大地の斜面に沿い一番高い北西に天守曲輪、その東に本丸、二の丸、さらに東南に三の丸とほぼ直線に並ぶ「梯郭式」の築城方式をとる土塁の城でした(梯郭式とは各曲輪が隣接しながら階段状になっている様式)。ドラマ館は二の丸跡地にあり、ここには浜松で最も長い歴史を持つ元城小学校がありましたが小中一貫校として移転しました。

ドラマ館内部 写真撮影一部を除き可能

大河ドラマ館
 現在NHKで放映中の大河ドラマ「どうする家康」では、誰でも知っている歴史上の偉人徳川家康の乱世を終わらせ、平和な世にするために苦悩した一生が描かれています。その足跡の中でも特に危機迫る時期を過ごしたであろう出来事がドラマ館では展示紹介されています。展示は、ドラマで浜松が描かれるストーリーに合わせた内容となっており、主要人物の衣装や小道具の展示をはじめ、撮影の裏側などを深堀した話などが演出家や出演者により語られ、その映像を4Kシアターで放映しています。「どうする家康」のドラマの描き方がよく分かり、思わず2回見てしまうほどでした。
 インフォメーションまでの通路は、東京オリンピック選手村で利用された木材を使用するなど、天竜材を使った装飾が施されています。また、インフォメーションでは家康の散歩道の冊子や、ドライブマップなども配布されています。今回はそのゆかりの地の一部をウォッチングしたいと思います。

天竜材を使用した園路インフォメーション お土産もいろいろあります管内展示状況

堀川城・引馬城と椿姫観音・三方ヶ原の合戦

堀川城址(浜松市北区細江町気賀

■堀川城
 家康が三河から浜松へ進行するにあたり、反旗をひるがえした堀川城は、今川氏への忠信が強かった気賀の村人達により築かれた城でした。城を守る大半は老若男女の村人だったので激しく抵抗したが、城兵は全滅した落城後も家康は、敗残兵を探しだして処罰し首を都田川の土手にさらしたと言われ、家康の生涯の中で最も凄惨な戦いとされています。

引馬城跡・現元城東照宮
(浜松市中区元城町111-2)
椿姫観音(浜松市中区元浜町133)

■引馬城と椿姫観音
 家康が遠江に侵攻した当時、浜松には女城主お田鶴の方が守る引間城がありました。家康はしばしば使者を送り城の明け渡しを促したものの聞き入れられず、しびれを切らした家康が城を攻め、多勢に無勢で数日の戦いで敗れたお田鶴の方と侍女たちは枕を並べて討ち死にしました。その時の戦死者を埋葬し塚を作り、椿を植えたと伝えられています。お田鶴の方を祀るために椿姫観音の祠を建て住民たちが供養を続けていますが、残念ながら現在は椿はありません。

三方ヶ原古戦場跡(浜松市北区根洗町1109)

■武田軍との攻防 三方ヶ原の合戦
 三方ヶ原の戦いは、徳川・織田の連合軍が浜松市郊外の三方ヶ原において武田信玄軍と激突した戦いで、家康の生涯で最大の敗戦と言われています。
 武田軍3万人に対して家康軍はわずか1万人足らずで勝負になりませんでした、この戦で逃げ帰った時の逸話が多数残っています。

蜂前神社(浜松市北区細江町中川6915)
三方ヶ原の戦いで誘い出された家康を待ち伏せしたと言われる神社(おんな城主直虎ゆかりの神社でもある)
八幡神社雲立の楠(浜松市中区八幡町2)
戦いに敗れた家康が八幡宮の楠の根元の洞穴に潜み一心に八幡神を拝んだところ瑞雲が立ち神霊が白馬にまたがり、城に向かうのを見て勇み立ったとされる楠の木
夏目次郎左衛門吉信の碑
(浜松市中区布橋2-13)

夏目次郎左衛門吉信は、浜松城の留守居役であったが家康の苦戦を知り城を出て、死を覚悟した家康を諫め影武者となり討ち死にした武将(三河一向一揆で敵側についたが、家康の寛大な処置の恩に報いた)
本多肥後守忠真の碑
(浜松市中区鹿谷町25-10)

三方ヶ原の戦いで退却する徳川勢の殿(しんがり)を務め武田軍の追撃を守り切り奮戦の末討ち死にした武将
小豆餅と錢取り(御菓子司 あおい)
家康が逃げ帰るとき茶屋の小豆餅を食べ代金を払わずに逃げたとされる伝承にちなんだ菓子
犀が崖(浜松市中区鹿谷町25-10)
崖に布橋をかけあたかも橋が架かっているように見せかけて家康軍が夜襲を仕掛け一矢報いた

徳川家康公の正室・築山御前を切った太刀を洗ったとされる伝説の池

太刀洗の池 浜松医療センター工事中
(浜松市中区佐鳴台5-6-1付近)

現在太刀洗の池の碑は医療センター工事中のため令和6年4月まで撤去されていてこの看板があるのみ
当時の佐鳴湖は今の医療センターあたりまで入り江が入り込んでいたのではないかと思われる

 家康公の長男信康に嫁いだ信長の娘篤姫。家康の正室・築山御前と信康が武田勝頼と内通しているとして12ヶ条に及ぶ訴状を受け信長が二人の処刑を命じた。岡崎城から浜松城に信康の助命に向かった築山御前だったが、この地で待ち伏せていた家康の家臣が「徳川家のため」として築山御前に自害を求めたが、拒んだため命を奪われ、38歳の短い生涯を閉じています。

西来院 月窟廟(浜松市中区広沢2-10-1)

 西来院は、正長元年に開山し釈迦牟尼仏を本尊とする寺です。住宅地の一角に戦国時代の悲劇の女性として知られる家康の正妻で、佐鳴湖で息を引き取った築山御前が生来院月窟廟に祀られています。
 築山御前は、静岡市の出身であったため「瀬名」と呼ばれたと西来院の築山御前の説明板にありました。

西来院 築山御前(瀬名)の説明文西来院の六地蔵尊
浜松にある最古最大の地蔵尊と言われている
普済寺(浜松市中区広沢1-2-1)
曹洞宗の寺 広沢山普済寺は、三方ヶ原の戦いで信玄に敗れた家康が逃げ帰た時に、この寺を焼いて浜松城が燃えているように見せかけ、武田勢を油断させ、犀が崖付近で夜営していた武田勢に徳川勢が夜襲をかけて信玄に一矢報いたとされています。
宗源院(浜松市中区蜆塚1-20-1)
曹洞宗の寺 宗源院は、三方ヶ原の戦いで討ち死にした成瀬正義ら多くの名のある武将が眠る寺。彼らの尽力で合戦は武田信玄の思惑通りに進んだものの、家康を倒すことができませんでした。家康は、在城当時ここで弓の稽古に励んだとも言われています。

家康の三男で徳川二代将軍秀忠の誕生時の産湯として使われたと言われている井戸跡

二代将軍徳川秀忠誕生の地(浜松市中区常磐町141-25)

 当時の井戸は、現在の場所より西側に50mほどのところにあり、その一帯は城下で、家康が居城していたころは下屋敷が構えられていました。その下屋敷で秀忠は誕生したと伝えられています。

五社神社・諏訪神社(浜松市中区利町302-5)
秀忠の産土神(うぶすながみ)として崇敬された五社神社・諏訪神社。両社殿は、1945年まで旧国宝に指定されていたが太平洋戦争による戦火で焼失し1982年に再建されている(*産土神…生まれた土地の守り神)
下屋敷近くにあった生涯手傷を一度も負わなかった槍の本多忠勝屋敷跡
(浜松市中区田町231-1)