下田市吉佐美から、南伊豆方面に向かう国道沿いに、三倉山という円錐形の美しい山がある(第一図)。
奈良県桜井の三輪山に似た山で、昔から、人々の信仰の対象となった“神奈備”型の山である。古代より、神が降臨する山として知られていた。この三倉山を左手に見て、大賀茂に向かう田圃の中の一本道がある。
この道を進んで行くと、右手に小さな丘陵が見えてくる(第二図)。
第一図(三倉山) | 第二図(洗田遺跡) |
第三図 (祭器遺物) |
この丘陵の上が洗田遺跡である。
昭和のはじめ、國學院大學の教授の大場磐雄博士が、発掘調査をした。そこからは、土師器や須恵器という古墳時代の土器と共に、石製や土の勾玉や鏡の模造品が多数出土した(第三図)。
これらの模造品は祭祀遺物といって、古代の人々が神を“まつる”際に神前に供えたものである。
大場博士は、これを見てあることに気付いた。それは、これらの遺物が奈良の三輪山周辺の遺跡から発見される祭祀遺物とまったく同じものであること、また、三輪山に似た神奈備型の山、三倉山が近くに存在することである。
さらに、伊豆半島の南部には、賀茂という地名が多数存在することから、古代、大和国から鴨族が伊豆半島にもやって来て、このような祭祀遺物を用いて“神まつり”を行う大和型の祭祀を、この地につたえたものであるという説を唱えた。所謂これが大場説ある。また、賀茂という地名は、この鴨族に由来する地名であると考えたのである。
鴨族は、大和国葛木を本拠地として活耀した古い氏族で、宗教的能力に長けた一族である。後に、修験道の開祖となった役行者(役君小角)は、鴨族の出で、葛木山で修行を重ねて霊能力を高めたとされる。
京都の賀茂神社を祀る鴨の一族は、葛木の鴨族の一部が移住したものである。これを山城の鴨という。また、摂津国三島に移住した一族は、三島の鴨と呼ばれる。
日本の最初の国家である“大和王権”の下で、全国に活躍した氏族である。平安時代に著された『和名類衆抄』には全国の地名の一覧が出ているが、それを見ると伊豆国の他にも多数、賀茂の地名が出ているのである。
『出雲国風土記』に、次のような記述が出てくる、‘出雲国意宇郡に、葛木の鴨族が祀る神社に関係する処があり、そこを鴨と云ったが、神亀三年(七二六)に賀茂と字を改めた’とある。これは、奈良時代の始めに朝廷が全国の地名を二字に統一せよという命令を出したことによるもので、「改字」と呼ばれている。これによって全国の地名はすべて字に統一され、字も改められたのである。この『出雲国風土記』によると、賀茂という地名は、本来は、葛木の鴨族に由来する鴨という字であったことがわかる。
伊豆国の賀茂も、本来は鴨という字であったのかどうかについては、昭和の時代までは不明であったが、その後、次第に新たな資料が発見されてきて、賀茂の地名の歴史が明らかになってきた。
最初の発見は、奈良市であった。奈良の市街地にデパートの建設計画が持ち上がり、発掘調査が行われることになった。調査は昭和の末から平成の初めにかけておこなわれたが、これが、世紀の大発見となったのである。この建設予定地は、奈良時代の宰相、長屋王の邸宅であることがわかったのである。また、伊豆国の歴史に関しても大きな発見があった。長屋王の邸宅の北側に隣接する二条大路から、伊豆各地の地名を記した多数の木の荷札が発見された。その内の、下田に関係する荷札を挙げてみると、
「伊豆国賀茂郡稲梓郷稲梓里戸主占部 志戸占部石麻呂調荒堅魚十一斤十雨六連六丸」
これは、稲梓の里に住む占部石麻呂が、調(税)として都に納めた堅魚の梱包に付けた荷札で、荷札木簡と呼ばれているものである。煮堅魚と書かれた例もあり、堅魚を煮て生節のようなものを納めたと考えられている。天平七年の年号が記されているので奈良時代の始めの資料である(この他、奈良時代の伊豆各地の多数の地名が明らかになった)。
この二条大路出土木簡によって、伊豆国の賀茂という地名は、奈良時代の始めにまで遡ることがわかった。
その後、平成の時代になって、我々伊豆の古代史を研究する者が待ち望んでいた資料が遂に発見されたのである。それは、飛鳥の石神遺跡から出土した荷札木簡である。
平成十八年、奈良文化財研究所は、伊豆国の荷札木簡と断定出来る二枚の荷札木簡を公表した。そのうちの一枚には、次のような文字が記されていた。
「辛巳年鴨評加毛五十戸」表
「矢田部米都御調柑五斤」裏
辛巳年は、六九一年であるので、飛鳥時代の木簡である。
評は”こおり”と読み、後には郡となる字で、五十戸は“さと”と読み、後の里のことである。この木簡は矢田部米都が飛鳥の都に納めた調の荷札木簡なのである。
この木簡の発見によって、伊豆国の賀茂という地名は、飛鳥時代には鴨という字であったことがわかり、賀茂という地名が鴨族に由来するものであることが判明したのである。
所謂大場説は、再び脚光をあびることとなった。伊豆国の賀茂という地名は、このような時代背景を持つ由緒ある地名である。
地名は、其の地の歴史を物語る貴重な文化財である。地名をやたらに変えることは、文化の破壊行為である。このことを次代に生きる我々はしつかりと認識し、後生に、その歴史を伝えて行く義務がある。