山下さん(左)に話を聞く清水委員 |
株式会社古川組の工事部機材課長・管理部安全課長の山下和也さんに、若い頃のバックパッカーの経験を紹介してもらいます。いつ頃、どのような経緯で、旅に出たのでしょうか。
1996年に大学を卒業し、東京の船舶機械関連企業に勤めていたのですが、3年ほど経ったころ、東京から離れたいという気持ちが強くなりました。
大学時代に実習で訪れた清水で、暮らしたい、働きたいなと。その前に、旅に出よう!と。当時、読んだ「深夜特急(沢木耕太郎著)」の影響が大きかったこともあります。
いわゆる“バックパッカーのバイブル”ですね。すぐに日本を飛び出したのですか。
資金はある程度貯めていたのですが、三宅島で45日間ほど、ダイビング関係の船の整備をする住み込みバイトをしました。一旦、東京に戻り、建築関係のアルバイトで資金を貯め、今度は陸路。900ccのバイクで北上することとし、結果、北海道を一周しました。この時はキャンプをメインにし、時々1泊500円のライダーハウスに泊まり、途中、農家の農作業などを手伝って資金調達をしながら、60日間ほど。
当時は旅をしている同世代が多く、北海道では開放感のせいか旅人同士が声を掛け合い、バイクの話から始まり飲み会が始まる…そんな日々でした。一流企業や大手銀行をドロップアウトした人が、同じように旅をしていました。
北海道から戻り、いよいよ、海外ですか。
移民ではないという証明のため、45日の期間設定した航空券で、欧州に向かいました。イギリス・ヒースロー空港に降り、ベルギー、ドイツ、オーストリア、スイス、イタリア。そして、フランス・シャルルゴールド空港から日本に戻りました。期間があったので、スペインに行けず、それは今でも心残り。
ヨーロッパ各国の印象は。また、コミュニケーションは、どのようにとりましたか。
ユーロレールという乗り放題の列車チケットを利用し、1泊500円から1000円程度のドミトリィハウスを泊まりました。ドミトリィハウスは6~8人部屋が多く、いろいろな国の人と会話をし、時には宴会になり、とても刺激的な場所でした。どの拠点でも必ずバーに行くことをテーマにしました。コミュニケーションですが、まずは、その国の言葉であいさつをし、そのあとは、“気合の英語”です。
歴史のあるヨーロッパは、古い建造物が多く残っている印象でした。どの国も移民には厳しそうでしたが、旅行者にはやさしく、日本人だと説明すると、“ジェネラルトーゴー”と日露戦争の英雄の話をする人に数人会いました。
フランスから日本へ戻り、すぐにアメリカへ渡ったのですか。
この時も東京でアルバイトをして、心もとない資金を補いました。祖母がこっそり援助してくれたのですが、このことは生きている間はナイショでした。
その後、シカゴ、ボストン、メキシコシティ、ニューヨーク、ベラクルス、ニューオリンズ、ヒューストン、サンアントニオ、再度メキシコシティ、トゥーソン、エルパソ、ティファナ、サンディエゴ、ロサンゼルス、サンフランシスコと、アメリカ・メキシコを回りました。
世界の中心ニューヨーク、ボストン。郊外で音楽の街ニューオリンズ。州境のメキシコシティや国境の街エルパソ。グランドキャニオンでは涙が溢れそうになったり、市場の活気にワクワクしたり…。
ただ、ニューオリンズでは、複数の白人警察官が黒人に暴力を振るい、反応した黒人たちが取り囲む騒動に巻き込まれそうにもなりました。メキシコ・アメリカ間の陸路国境越えでは、検問所の警察官ですら信用できなかったり、拳銃を突き付けられたりと。今さらながらですが、ずいぶん危険な側面もあったと思います。
サンフランシスコから一旦、日本に戻り、その後、ハワイに1ヵ月間ほど滞在しました。この時はダイビング三昧の生活をしてきました。
ハワイから日本に帰ってきて、現在の古川組さんに入社されたのですか
実は、三宅島から戻り、北海道へ出掛ける前の6月に古川組で面接を受けていました。自分のわがままだったのですが、どうしても欧州へ旅に出たく、翌年の4月まで入社を待ってもらいました。今でも、わがままを受け入れてくれた会社には、とても感謝しています。
船舶管理者として入社し、土木の仕事を始めたのは30歳からです。それから20年が経ち、その間も旅行することはあります。工期終わりの端境期などに有給休暇を利用し、アフリカ・ジブチやネパールなどを訪れました。
旅の経験で、人生観に影響がありましたか。
読書、またはニュースなどで海外情報に触れる時、自分が旅で見てきたこと・考えたことを合わせて考えることがあります。その時、旅の経験は財産だなと実感します。
また、旅の準備中や途中に、今まで日本と日本文化について関心を持っていない自分に気が付くこともできました。旅行で出会った人たちが自分の国について生き生きと話している姿を見て、恥ずかしくなりました。
そこで帰国後、何かを始めようと、「お囃子チーム」に入り、笛・太鼓を通して伝統芸能(落語、歌舞伎、浄瑠璃など)に触れる楽しさを覚えました。
また、旅を通じて日本のインフラや食事、治安の良さを実感し、先人たちの努力や技術、工夫を体感できることは、本当に貴重な体験でした。
今後、また、お一人で旅に出られる計画はあるのですか。
当時は、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の前だったことや、1ドル105円前後という円高だったことなどもあり、現在では難しいであろう貴重な経験の連続でした。旅を通して、出会った人たちから刺激を受けたり、国や街からもインスピレーションを感じたり…。
とは言うものの、旅の終わり頃には、ふと「社会の役に立っていないな」などと考えることもあり、早く働きたいという気持ちにもなっていました。
今後は、若い頃とは違う旅の仕方、例えて言うなら自然の雄大さを感じる旅に出たいです。今度は妻と一緒に。