ズームアップインタビュー もう一つの龍馬伝が伊豆にあった

ことしのNHKテレビの大河ドラマは『龍馬伝』。これにあやかろうとしたわけではないけれども、テレビをきっかけに今盛り上がりを見せているのが下田の街です。もともと幕末、開国と切っても切れない下田ですが、下田と坂本龍馬との関係=歴史を掘り起こし、あらためて龍馬の脱藩が許され、維新回天の活躍が始まった「龍馬飛翔の地」と位置付け、より積極的に「幕末のにおいのする街」にしていこうという熱い取り組みが、今始まっています。その旗振り役を務めるのが、2007年発足の伊豆龍馬会と、ことし1月にスタートした下田龍馬伝志援隊。その会長であり隊長で、唐人お吉で有名な宝福寺住職の竹岡幸徳さんと、副隊長の石垣直樹さんに話をうかがいました。(聞き手は総務広報委員会の原廣太郎委員長と、江幡文雄委員)。

「龍馬伝」放映決定にびっくり

▲容堂・海舟謁見の間入口

委員伊豆竜馬会立ち上げのきっかけはどういうことからでしょうか。


竹岡氏 山内容堂と勝海舟が坂本龍馬の脱藩の赦免について会談した「謁見の間」は長い間埋もれていました。

高知の坂本龍馬記念館が後押しをしてくださって、「何よりも下田の皆さんのために、この状況はいけない。早く整備をして、外に発信していくのがあなたの使命でしょう」と言われて、思い切って1500万円を掛けて整備しました。

それから龍馬との付き合いが始まり、伊豆竜馬会を設立しました。

「謁見の間」は、2007年11月のオープンですから、ことしの『龍馬伝』の放映が決まるずっと前で、大河ドラマが決まって本当にびっくりしました。


121番目の龍馬会

▲石垣さんが書かれた『お吉と龍馬 風の出会い』(2009年3月 文芸社刊)

委員 龍馬会は、全国にどれくらいありますか。


竹岡氏 伊豆龍馬会は121番目です。全国で134です。静岡県内では浜松が早く、次が伊豆、今度掛川にできるということで、三つになります。

石垣氏 ここ10年で3倍になっています。


竹岡氏 1県で多いのは鹿児島県、高知県、京都府です。海外にもあって、ブラジルなど9カ所。最近、イラクやオランダにできています。設立の理由は、ケンカばかりしているから、薩長同盟に学ぼうということらしい。

委員 宝福寺は、もともと「唐人お吉」で有名でしたね。どうして龍馬とのかかわりがわかったのですか。

竹岡氏 容堂侯とともに大鵬丸に乗っていた樋口真吉という人の資料がいっぱい高知で見つかって、地元で「樋口真吉展」を開くことになったのです。真吉は「龍馬の隠れた父」と呼ばれている人だそうです。

その展覧会の準備として、真吉の足跡をたどると下田に来ているわけで、どうしてもここの資料が必要だということになりました。

わたしは最初分からなくて、学芸員の方に「謁見の間」を案内したのですが、わたしの無関心さに唖然として帰られた。その後も何度か来られたのですが、「どうにもこの住職は、龍馬についての認識があまりにも浅い」と思ったのでしょう。「少し勉強しましょうか」ということから、いろいろな古文書を見せていただき、ここ宝福寺がいかに大切かということを教わったのです。

わたしにとっては一つのカルチャーショックで、「こうしてはいられない」というのがきっかけです。


下田は龍馬飛翔の地

▲宝福寺の前には、高さは約3bの木彫りの龍馬像(土屋宗一郎氏制作)が立っています。龍馬おなじみのポーズで、顔はと見ると、福山雅治に似ているかな? ことし1月17日に行われた除幕式には、千葉周作、勝海舟、坂本龍馬らの子孫も顔をそろえたそうです

委員龍馬の出発の地だったということが分かったわけですね。


竹岡氏「そうとしか言いようがない」というのが、坂本龍馬記念館の森健志郎館長のご意見でした。森館長は、「ここが龍馬のターニングポイントであり、この地が無かったら、その後の5年間の活躍は無かったと絶対に言える」と強くおっしゃってくださいました。

その後押しがあれば大丈夫だと思ったのです。記念館には、研究者をたくさん紹介していただくなど、たいへんお世話になっていますし、今でもご指導を頂いています。

龍馬に詳しい石垣さんの力も大きくて、本当に助かりました。


厄介なのは司馬「竜馬」

委員司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』では、下田はわずか何行かしか書かれていません。だからあまり興味を持ってもらえませんね。

竹岡氏森館長によると、一番厄介なのは『竜馬がゆく』を読んだ人だそうです。「本と違う」と言う。司馬さんのイメージからすると、龍馬は脱藩して身も心も自由になったわけで、脱藩が許されると元に戻る、自由さが感じられなくなる。だから『竜馬がゆく』では下田のシーンを外したのではないかと思います。

しかし、同じ司馬さん『酔って候』を読むと、この会談のシーンは克明に書いてあります。蝦夷地開拓の話もちゃんと書いてあります。だから、全部知っていて、ああいうふうにしたのです。

今度のNHKの『龍馬伝』は、司馬さんの龍馬を覆す方法を採っています。史実的な面では、司馬さんが取り上げていないところを取り上げていこうという意図があって、新しい面が出てきています。下田は、脱藩が許された地で重要だという考えがあり、期待できます。


愛情が育てる下田の龍馬

▲『下田龍馬伝』(伊豆竜馬会著)。文久3年の容堂・海舟の龍馬赦免の会談から、元治元年の龍馬・海舟の蝦夷地開拓の語り合いを読み物として紹介しています

委員『竜馬がゆく』と違うと言われればそれまでですが、地元の言い伝えとしていければいいのではないでしょうか。

石垣氏そこで、伊豆龍馬会として冊子『下田龍馬伝 下田にあった勝海舟と坂本龍馬の絆と夢』を書いたのです。龍馬が海舟と会っているとは思わなかったという人がたくさんいます。

委員下田のまちの活性化になるなら、どんどんお話を広げ、ふくらませていってもいいのではないですか。

石垣氏それには愛情を持ってほしいのです。「下田龍馬伝志援隊」が心配しているのは、お祭りで終わってしまうようなことです。愛情が無ければ、立ち消えてしまいます。龍馬をもっと知ってもらい、「あの時、龍馬はこうだったに違いない」「私はこう思う」というように話がどんどんふくらむように、愛情を持って話ができるようになることで、初めて龍馬が土地に根付くことになるのではないでしょうか。

1年限りのブームで終わらせては駄目です。



龍馬は下田に来ている

竹岡氏龍馬が下田に上陸したかという論議があります。私は「住吉楼待機説」を採っています。それは、私の曽祖父が残した日誌が証明しています。当時有名ではなかった龍馬ですから、曽祖父には何のことか分からなかったでしょうが、龍馬なる人物が住吉楼に待機していたと伝えていました。

石垣氏下田に来ていたかどうかは、これが史実だというものがありませんが、100%無かったとは決していえないはずです。下田の人間としては、来ていたと思いたいのです。

竹岡氏これは下田の財産なんです。そこを分かってもらいたいのです。


石垣氏お寺のためにやっているのではありません。自分が生まれ育った街だからなのです。ペリーやハリスではなく、やっと開国に似つかわしいキャストがやっと現れました。龍馬という人が。

下田は龍馬が許された土地。夢と絆の土地であり、さわやかで前向きな土地なのです。この思いを育てていきましょうというのが下田龍馬会です。

竹岡氏ある学芸員の方が下田に来られた時に「龍馬は下田に来ていますよ」とおっしゃいました。なぜなら「この町並みは龍馬の生まれた町並みに似ている。これは絶対にきている」と。

▲観光地図『下田龍馬絵図』。龍馬の上陸地から宝福寺までのモデルコースを紹介するとともに、下田の街を楽しく紹介しています。絵図の上を「龍馬君」が駆けています。裏面には、龍馬赦免の絵物語を掲載しています。

あとは「白扇」があれば文句なし

▲「朱の大杯」。容堂は、この杯に酒を満たして海舟に飲ませました
▲容堂が海舟に与えた龍馬赦免の証の白扇(レプリカ)。扇には「歳酔三百六十回 鯨海酔侯」と記してありま

委員お寺には他にも宝物はあるのでしょうか。


竹岡氏容堂が藩主になる直前の書があります。高知の方がここに置きたいと送ってくれたものです。今度、山内家に出入りしていた料理人が持っていた容堂の携帯用の火鉢が来ます。海舟にお酒を飲ませた「朱の大杯」と火鉢、これに海舟に与えた扇子が飾られれば文句はないですけれどね。

容堂と海舟が会談したことは、下田の宝だと思います。これを生かさなければもったいない。しかも話題は龍馬ですから。


幕末の匂いがする街へ

委員これから下田の街をどのような街にしていきたいとお考えですか。


石垣氏幕末の匂いのする街づくりを進めていきたいですね。新古民家といった手法が使えると思います。上陸地から宝福寺までを「龍馬ストリート」として整備したいと考えています。また、許された場所ということで、「龍馬ウエディング」をやりたいと、3年前からホテルに提案しています。

竹岡氏ャラクターの「龍馬君」を街の拠点拠点に置こうということも進めています。下田が幕末に特化して、全体を覆えるようにできればいいですね。『龍馬伝』で街が一つになってきています。龍馬には、どこにも引っかかるところはありませんから。

委員みなさんのお力で、下田がもっと生き生きとした街になることを期待しています。ありがとうございました。



【龍馬脱藩は下田で許された】

まず、龍馬と下田の関係を知らないとお話がわかりません。伊豆竜馬会発行の「坂本龍馬 下田飛翔物語」をもとに、かいつまんでご紹介しましょう。

☆   ☆   ☆

それは一つの嵐がつくった物語。文久3年(1863年)、前土佐藩主、山内容堂を乗せた大鵬丸は、大阪に向かっていましたが、荒天のため下田港に避難しました。それでも嵐を押して出港したものの、難破し損なって下田港に舞い戻ります。

ちょうどそこに土佐藩を脱藩した坂本龍馬たちを伴った幕臣・勝海舟の順動丸も下田港に入ります。

容堂と海舟が宝福寺で会談。その中で、海舟は坂本龍馬の脱藩を懇願しました。容堂は、海舟が下戸であることを承知の上で、酒を飲ませます。海舟は「朱の大杯」に満たされた酒を飲み干しました。果たして龍馬の脱藩が許されたのです。

赦免の証として、海舟は容堂の瓢箪を求めました。容堂は、瓢箪は渡せないと、白扇に瓢箪の形を描き、その中に「歳酔三百六十回 鯨海酔侯」と記して与えました。

こうして伊豆・下田は、坂本龍馬が以後、心置きなく維新回天の大仕事に打ち込めるようになったきっかけの土地、「龍馬飛翔の地」になったということです。

☆   ☆   ☆

こうした歴史を下田の街の活性化につなげようと、熱い取り組みが進められています。ことしいっぱい「龍馬コイン」(地域通貨。900円で購入して1000円の買い物ができる)が5万枚、4月から発売されるほか、龍馬の小判(1枚3000円で桐の箱入り)も発売になるそうです。1龍馬と数えるそうです。おわかりでしょうが、「両」と「龍」を掛けているのですね。

これから、まだまだ企画がいっぱい出てきそうで、下田が面白くなりそうです。

【ズームアップインタビュー取材記】

総務広報委員長  原廣太郎

2月12日、下田市にある坂本竜馬館の取材のため、建通新聞社の名倉さんと待ち合わせて、午前9時静岡駅を私の運転で出発しました。

あいにく小雨の降る冷たい朝でした。関東地方は降雪注意報が出ていたので、途中の天城越えを少し心配しながら一路東名を東進。渋滞もなく、四方山話をしている間に沼津インターを出て、新設なった伊豆縦貫道の取り合いを右に見ながら下田街道目指して柿田川遊水地を過ぎ、大仁バイバスを目指すも、名倉氏いわく「あまり車の運転をしないので車窓の様子が珍しい」とのことなので、時間を気にしながらも下道を行く。

地図を片手に地名と景色を見比べながら、修善寺を過ぎ、天城浄蓮の滝でトイレ休憩、外に出ると外気が寒い。山々は小雨にかすんで霧の中、凍結の心配はなさそうだ。

出がけに江幡委員と連絡を取り、40~50分くらいの工程で下田につく予定を確認して、天城峠越え。昔は旅人の難所であった峠も、トンネルやループ橋で難なく峠越え。晴れた日なら相模湾と太平洋、伊豆の山々が見渡せるのに、かすかに残る残雪が枯草の上でほほ笑んでいた。

峠を下り切った分岐点から、曲りくねった狭い昔からの下田街道を経て市内に到着。近くで昼飯をかっ込みながら飯屋の主人から、龍馬や唐人お吉のうんちくを聞かされていると、心配した江幡委員から早く来いと催促、あわただしく目的地到着、江幡委員が恵比寿顔で出迎えて下さいました。 往路4時間の工程・・・・・・・午後3時半、インタビューを終了。外は未だ小雨が降っていたので、夕方になり天城の凍結も心配だったため、急ぎ岐路についた。渋滞もなく下田街道、バイバス東名高速と一気に走って6時過ぎ、無事静岡駅に到着しました。

▲TOP