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「駿府公園」から「駿府城公園」へ名称変更 

「駿府公園」は、平成24年4月1日をもって、「駿府城公園」へ名称変更しました。これは、城郭のイメージを公園名称に織り込むことにより、市民により文化遺産・駿府城跡としての意識を深めてもらうとともに、大御所徳川家康公が造営した駿府城という歴史的価値を全国へより発信していくことを目指したものです。

徳川家康公と駿府


▲徳川家康公の像

まず、徳川家康公と駿府の歴史を見てみましょう。

今から650年ほど前の室町時代に今川範国が駿河国の守護に任ぜられ、以後駿河国は今川氏の領土の一つになります。 今川氏全盛期9代義元の時代に、徳川家康(幼名松平竹千代)は人質として19歳までの12年間、駿府で生活しています。後に戦国大名、そして天下人へと成長していく過程で臨済寺の住職太原雪斎などから種々の教えを受けており、家康の人間形成の上で非常に重要な時期を駿府で過ごしています。

戦国争乱の中、永禄11年(1568)10代氏真は甲斐の武田信玄に攻められて掛川に落ち、駿府の町は焼き払われます。さらに、天正10年(1582)には徳川家康が駿府の武田勢を攻め、再び戦火に遭った中世駿府の町は、ほぼ壊滅状態になりました。

駿河国を領国の一つとした徳川家康は、天正13年から居城として駿府城の築城を始め、天正17年に完成させます。現在の二ノ丸以内の部分です。しかし、家康は翌年関白豊臣秀吉の命によって関東に移封(国替え)され、豊臣系の家臣中村一氏(なかむらかずうじ)が城主となります。豊臣秀吉亡き後、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長8年(1603)征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開きました。

慶長10年将軍職を2代秀忠に譲った家康は、その翌年駿府を「大御所政治」の拠点の地と定めて再び戻ってきました。天正期の駿府城を拡張(三ノ丸)修築し、駿府の町割りや安倍川の治水事業に取りかかり、現在の静岡市の市街地の原型が造られたのです。

そして、家康自らは、晩年も「大御所」として天下の実権を掌握し、駿府は江戸を凌ぐ政治・経済・文化の中心としてその黄金時代を迎えたのでした。(静岡市HPより)

駿府城公園の整備について

さて、静岡市では、平成3年に策定した「駿府公園整備計画」に基づき、「歴史遺産の保存・再整備」と市民の憩いの場や大型イベント会場としての「都心の公園機能の強化」、防災へリポートや災害時の受援施設、避難広場としての「防災機能の確保」の3つを基本方針として整備を進めています。

これまでに、駿府城公園の東南の角に位置する「巽櫓(たつみやぐら)」や「東御門(ひがしごもん)」、そして北東に位置する「紅葉山公園」が完成しています。

▲巽櫓(たつみやぐら)
▲東御門(ひがしごもん)

巽櫓・東御門についての案内はこちら

紅葉山公園についての案内はこちら

富士見芝生広場

▲富士見芝生広場

また、平成20年3月に坤櫓(ひつじさるやぐら)石垣、平成21年3月に富士見芝生広場の整備が完了し、全体の約40%の整備が進んでいます。

駿河湾沖地震で崩れた石垣も修復完了

修復された石垣< 石垣モデルの展示
▲修復された石垣
▲石垣モデルの展示

平成21年8月11日に発生した駿河湾沖地震で駿府城公園内の石垣が崩壊しました。その後、長い期間を費やしましたが、平成23年3月、見事に修復されました。

また、石垣の構造を説明した「石垣モデル」が富士見芝生広場に設けてありますので、是非、一度ご覧下さい。

坤櫓(ひつじさるやぐら)の復元について

坤櫓(ひつじさるやぐら)のイメージ図
▲坤櫓(ひつじさるやぐら)のイメージ図

現在は、駿府城公園の南西の角(ひつじさるの方角)に坤櫓(ひつじさるやぐら)を建築中であり、平成25年度末の完成を目指している。完成まであと2年かかりますが、完成が楽しみです。

駿府城天守閣再建へ向けて

駿府城天守閣の再建については、これまで長い間、官民合わせて議論されてきた課題です。平成20年3月から22年3月まで静岡市より依頼を受け検討してきた「静岡市駿府城天守閣建設可能性検討委員会」の報告書では、天守閣の資料等について、史実への忠実性が低い状況の現時点では、その再建は時期尚早との見解となりました。しかし、民間団体等で、天守閣再建を望む声が多くあり、今後、天守閣再建の動きは高まりそうです。