田沼意次侯は、江戸時代中期に幕府の側用人・老中を務め、遠州相良藩主として現在の牧之原市周辺を治めていました。

 意次侯は、幕府財政を立て直すために、商人から徴税するなど、様々な革新的な政策を実行し、「田沼時代」と呼ばれる華やかな時代を創り出した、日本を代表する人物です。

 牧之原市を中心に、最大で5万7,000石の領地を持ち、相良城の築城や城下町の整備、製塩などの地場産業を推進し、現在の町並みの礎を築いた郷土の偉人でもあります。

 田沼意次侯は、享保4年(1719年)に紀州藩士・意行の長男として生まれました。16歳で9代将軍徳川家重の小姓となり、のちに御用取次に抜擢されると、宝暦8年(1758年)には遠州相良に1万石の領地を与えられ、相良藩主となりました。

 安永元年(1772年)には、10代将軍徳川家治の側用人兼老中に就任し、革新的な経済政策を進めましたが、天明の大飢饉や浅間山大噴火などの大災害、松平定信などの保守的な幕閣の抵抗により失脚。天明8年(1788年)江戸にて70歳で死去し、駒込勝林寺に葬られました。

 領地である相良藩では、相良城築城による城下町の建設、相良から東海道藤枝宿の約28㎞を結ぶ「田沼街道」や相良湊などのインフラ整備に力を注ぎ、現在の牧之原市の礎を築きました。

 “賄賂政治家”としてイメージが定着してしまっている田沼意次侯ですが、牧之原市では“名君”として市民に慕われています。

2019年は、田沼意次侯の生誕300年を記念した各種事業を実施

 田沼意次侯ゆかりのまち牧之原市では、2019年の田沼意次侯生誕300年を契機に、顕彰活動や功績の発信を通じて、市民の誇りの醸成や地域の活性化につなげるため、官民連携の実行委員会を組織し、市をあげて各種記念事業を展開しました。

今も残る田沼家ゆかりの史跡や文化財

 牧之原市内には、意次侯が相良藩主として治めた当時を偲ぶことができる、数少ない遺構や史跡・文化財を見ることができます。

 「意次ドットコム」サイトでは、スマホで解説動画を見ながら巡ることができるように情報を提供しています。

「田沼再興」を掲げ、意次侯を活かした魅力あるまちづくり

 牧之原市では、全国的にも知名度が高い「田沼意次侯」を有用な地域資源として捉え、シティプロモーションや地域活性化のコンテンツとして魅力あるまちづくりに取り組んでいます。

 現在は、「田沼再興」の聖地・象徴として発信すべく、全国初となる銅像の建立に向けて募金活動を展開しています。